やがて、
視界の晴れた先に

  • 情報・金融カンパニー
  • 保険ビジネス部長
  • 1992年入社

川内野 康人Yasuhito Kawauchino

Conflict
6 9

バンコクの中心部に近づくにつれ、彼を乗せたタクシーはほとんど動かなくなった。四方八方から、けたたましいクラクションの音が聞こえてくる。

「話には聞いていたが、これほどまでとは……」

片側五車線の大通りに、クルマがひしめき合っている。車列を崩すように四輪車が横からグイグイと割り込み、荷台に十数人もの客を乗せたトラックがノロノロと走り、二輪車が隙間をジグザクと縫っていく。

さらに、スコールの大雨がそのカオスに拍車をかける。マンホールから溢れ出した水で道路は冠水し、視界の悪さから事故があちこちで起き、渋滞はいっそう酷くなる。

「なんだか、ぐちゃぐちゃだな……」

彼が受けたその印象は、これから始まるタイでのビジネスを暗示していた。


彼は九州で生まれ、大学時代までの二二年間を過ごした。坂の多い長崎市内に、千軒ほどの小さな飲食店が密集する街がある。氷を配達するアルバイトで、坂道を上り下りしていた。賄いをごちそうになるなど、配達先には可愛がってもらっていたから、人見知りだったわけではない。だが、チームプレイが苦手だった。一人でできる仕事は、気楽で心地よかった。

就活では、銀行や商社を受ける中で、いちばん早く内定が出たのが伊藤忠商事だった。なにか縁を感じた彼は、改めて会社について調べてみた。

「え? オレ、こんなに大きな会社に受かっちゃったの?」

九州までOB訪問に来てくれた先輩にも惹かれるものがあった。自分のバイタリティがあれば、世界を舞台にチャレンジできる。そんな漠然としたイメージで入社を決めた。

新入社員研修を終え、人事部の担当者から配属先を告げられたとき、彼はこう答えた。

「えっ、ホケンですか? 僕、医師免許とか持ってませんけど」

「……いやいや、保健室のホケンじゃなくて、生保とか損保のホケンだから。貨物船やタンカーを扱う仕事をしたいって志望だったよね」

「はい!」

「穀物や石油を積んだ船舶に海上保険をかけるのは、商社を支える重要な業務なんだよ」

仕事のことも、社会人としての常識も、なにもわかっていなかった。そんな新人にとって、必要な通過儀礼だったのだろう。配属された保険部の上司からは、とことん鍛えられた。

「またミスか。こんな計算、うちの小学生の娘だって間違わないぞ!」

「いい加減、九州弁丸出しで電話受けるのはやめろ!」

いまとなっては、その上司がいなかったら、自分はどうなっていただろうと思う。あのまま学生気分が抜けずにいたなら、大切な場面でガツンと痛い目に遭っていたに違いない。

保険ビジネスという日々の仕事でも、戸惑うことばかりだった。

「保険料率? リスク解析?」

海上保険では、積荷の破損や盗難、戦争や拿捕などのリスクをカバーするために積荷の性質、輸送経路、世界情勢によって保険料率を算出する。

会社相手の保険では、売上や資本金をはじめとする財務的観点からも、リスクを解析したりする。

最初は周囲の足を引っ張るだけだったが、先輩からの指導や、保険会社とのやり取りを繰り返すうちに、歩兵のように一コマずつ進めるようになっていった。

ちょうどその頃、保険部門は管理部門から営業部門への移行期にあった。本業である伊藤忠グループだけではなく、直接関わりのない社外の取引先に広く営業展開していく。自分たちで新しい保険をつくり、新たな商売としてお金を稼ぐ。この方針は彼を奮い立たせた。

「いよいよ、オレのバイタリティの見せ場だぞ」

入社から三年目、彼に海外駐在の辞令が出た。行き先はタイである。日本と同じように、タイでも管理部隊が営業部隊へと切り替わったタイミングだった。現地の保険マーケットの全体像が見えるにつれ、彼はこう感じた。

「ここの交通渋滞と同じだ。なんだか、ぐちゃぐちゃだな……」

日本や欧米とは違い、タイは保険後進国だった。法規制がさほど厳格ではない中で、保険会社・代理店・ブローカーが入り乱れて、激しい競争を繰り広げている。

伊藤忠商事の場合、海外ではコスモスというブランドで、顧客から委託を受けたブローカー(仲立人)として営業活動を行っている。彼が出向したコスモス・タイランド社は、一〇人ほどの小さな所帯でのんびりとやっていた。

めぼしい日系企業は、すでに大手保険会社ががっちり食い込んでいる。いったい、どこから手をつければいいのだろうか?

悩んでいたある日、バンコクの飲食店で、一人の男と知り合った。仕事を尋ねると、ホンダ・タイの正規販売店で、四輪車を扱っているという。

「へえ、キミは日本から来て、保険をやってるんだ」

「というか、タイではまだまだこれからなんですけど……」

「うちね、自動車保険が高いって言われて、お客さんをT社に奪われてるんだよ。なんとかならないかな」

頭の中で、突然なにかのピースがピタッと嵌まったような気がした。タイは渋滞が酷くて事故も多い。しっかりとした保障の受けられる保険づくりは、この自動車が溢れる国の安全を根底から支えることになる。

彼は早速、T社について調べてみた。自社グループで保険を設計し、他社よりも安い設定になっている。一方のホンダは、車両価格と保険料のトータル金額で購入を決めるユーザーの動向にまで気が回っていない。そこで彼は提案した。

「ホンダ専用保険をつくりましょう」

「いいね。でも、引き受けてくれる保険会社があるかな……」

ホンダ側が案ずる通りだった。タイにある約五〇社の保険会社のうち、まずは見込みのありそうな一〇社を回った段階で、担当者たちの答えはどこも同じだった。

「ダメダメ。ホンダは修理代が高いから、保険料を安くできるわけがない」

残る四〇社も期待できないか……。幸先の悪さに彼は不安を覚えたが、思い切って開き直ることにした。あえてタイで最大手の保険会社に飛び込んだのだ。すると、現地でさまざまなビジネスを展開する伊藤忠の看板が効いたのか、役員が自ら出てきて話を聞いてくれた。

「もし、修理代を二割ディスカウントできたら、うちで引き受けるよ」

ここからが大変だった。忙しい役員には朝五時半のアポイントしかとれない。眠い目をこすって訪ねても、細かな条件面で話が二転三転する。そんなタイ人気質に当初は戸惑いもあった。それでも、諦めずに交渉し続け、商品化へとなんとかこぎつけた。

保険が安くなったことで、ホンダ車のシェアはじわじわと伸びていった。その成果を見て、彼は次の一手を講じる。ホンダの二輪も盗難・対人対物保険とセット販売しよう。四輪の実績が効き、こちらはスムーズに事が運んだ。

保険を広く提案するため、彼はアシスタントのタイ人スタッフと共に、全土を駆けずりまわった。まさに津々浦々、訪ねた販売店の数は、四輪で七〇〇軒・二輪も入れると一〇〇〇軒に及んだ。

異国の未開拓市場に、一つひとつ自分の印を刻んでいく。そんな毎日が本当に楽しかった。タイの熱気や暮らしも、自分の肌に合っていたのだろう。帰国するのは、二年に一回の本社での会議のときだけで十分だった。

コスモス・タイランド社は急拡大を遂げた。自動車保険はライバル社の参入が相次ぎ、競争が激しくなったが、家電の延長保証など、日本の成功モデルを持ち込むと、大きな成果が出た。一〇名だった従業員は六〇名に増え、利益も一〇倍以上になった。

もっと会社を大きくしたい。次はどんな保険をつくろうか。日本に戻る気など、彼にはさらさらなかった。

「ちょっと帰ってこい」

六年間を過ごしたタイ駐在の後、彼は日本に戻って来た。帰国後は、コスモス・タイランド社の計数管理などに携わっていたが、あの挑戦的な日々に比べると、物足りなさを感じざるを得ない。そんなある日、意外な辞令が出た。

「ニューヨークに行ってもらうから」

「えっ、僕が? アジアじゃなくてアメリカですか」

「タイで新しい保険をつくってきたよな。市場環境は正反対だけど、ニューヨークでもそれをやってほしいんだ」

上司にそう言われたら悪い気はしない。彼は意気揚々と日本を発った。しかし、その気持ちもジョン・F・ケネディ国際空港の到着ロビーまでだった。タイとは寒暖差四〇度の寒さと、舞い降る雪に三六〇度を閉ざされた不安。いますぐ航空券を取って、日本に引き返したかった。

記録的な大豪雪は、やはりこたえたらしい。高熱を出してしまった彼は、マンハッタンのオフィスにも行けず、いきなり三日間寝込むことになった。

いや、結果としては駐在中の四年間、ある意味ずっと寝ていたも同然だったのかもしれない。タイでの成功体験をもとに、あれこれと模索は続けていた。だが、保険先進国のアメリカではなかなか通用しない。他社が取り扱っていない隙間へと足を踏み入れるも、法規制というシャッターが急に降りてきて、行く手を塞がれてしまう。

そうこうしているうちに、元トップの人事をめぐる訴訟が勃発した。アメリカが訴訟社会であることは承知していたが、まさか自分が当事者として巻きこまれてしまうとは……。弁護士や本社法務部とのやりとりに追われた彼は、本来の仕事どころではなくなってしまった。

解決のメドが立った頃、辞令が出た。

「ちょっと帰ってこい」

系列の個人向け保険サービス会社の取締役として約二年出向したのち、本社に戻った。

ある日、役員が彼のデスクに来て、一冊のビジネス誌を差し出した。

「この会社知ってる?」

「ほけんの窓口ですか。もちろん知ってますけど、なにか……」

「すごく伸びてるようだけど、お前らのチームで研究してるか?」

それまでの日本の個人向け生命保険は、訪問してくる営業職員から契約するスタイルだった。やがて、ネットで簡単に申し込める保険も登場したが、いずれも自社商品しか取扱っていない。

ところが、ほけんの窓口は、どちらとも大きく異なる。客は自ら来店し、さまざまな保険会社の商品を比較検討したうえで、自分に合った保険を選ぶことができるのである。

彼は実際に店舗へと足を運んでみた。スタッフは売り込みをせずに、じっくりと来店客の話に耳を傾けている。保険と長年関わってきた彼にとっても、ハッとさせられる光景だった。

「日本の保険に改革をもたらすビジネスであることは間違いない!」

ほけんの窓口は、二〇〇〇年に一店舗目をオープンして以来、二〇〇八年には百店舗、彼が出会うことになった二〇一四年には、五百店舗にまで規模を拡大していた。

だが、急成長の弊害で、問題も抱えていた。推奨する商品の偏りや当時の社長の脱税問題がマスコミから一斉に叩かれ、業績はもとより社会的信用が不安定な状態に陥っていたのである。彼がタイの着任当初に感じたのとは、また違った意味で、ぐちゃぐちゃだった。

だから、彼が初めて会社を訪ねたとき、新社長はこう言って迎えた。

「こんな時期に、よくお越しくださいました」

「いえ、コンサル型の保険販売は、アメリカでは当たり前ですが、日本では御社が孤軍奮闘されています。私どもになにかお手伝いできないかと」

こうして、彼は伊藤忠からの出資を模索し始めた。ほけんの窓口としては、退任した前社長の持ち株の引き受け先も含め、大手からの出資で経営基盤を固めていきたい。伊藤忠としても、かねてから掲げているリテール向けのノウハウが得られ、扱っている多くの保険会社の動向が一度に掴める。株主として事業をチェックし、販売における公正さを担保できれば顧客の利益にもつながる。

だが、社内からは慎重論が相次いだ。

「業績が不安定だが、大丈夫なのか」

「マスコミが叩いている点を正せないと、うちの評判にも関わるぞ」

会議の場で、その空気を変えることは難しい。彼は、保険で社会を変える志を説き続け、一人また一人と社内にサポーターを増やしていった。そして一年半後、ようやく承認をとりつけた。

出資の決定にともない、彼はほけんの窓口に出向することになった。社長補佐として、トップの思考に直に触れる機会を得て、多くを学ぶことになる。

「社長はいつも決断が早いですよね」

「まあ、当然ロジカルには考えるけど、最後は直感が大切なんだ」

信念を持っているからこそできることだと、彼は感じさせられた。周りからなにを言われても、ブレない。この人の前には、視界が開かれているのだ。

入社から二五年のキャリアのうち、半分以上は他社への出向だった。こんどこそはそこに骨を埋める覚悟をしていたが、そうはならなかった。

「ちょっと帰ってこい」

二〇一七年の春、彼は約三年にわたって出向していたほけんの窓口から本社へと戻ってきた。現在は、情報・金融カンパニーの保険ビジネス部長として、四〇人のメンバーたちを率いる立場にある。

若手は、自分の若い頃とは比べものにならないほど、しっかりしている。保険ビジネスに染まっていないだけに、発想も柔軟だ。彼が心配しているのは、中堅層である。経験があるだけに、固定概念にとらわれやすい。常識という殻を破らなければ、新しいビジネスを生んでいくことはできない。

とはいえ、自分だって人のことは言えない。会議の場で、ついこんな発言をしてしまう。

「保険業法があるから無理です」

この口癖に、部下からツッコミが入ったことがある。

「部長、それって、僕らに言ってることと違いませんか?」

「……!」

思わず、ドキッとさせられた。

さまざまな会社への出向を経験して本社に戻ってきたことで、どこか安心していたのかもしれない。まだまだ落ち着いてはいられないのだ。



彼はいま、香港・ベトナム・タイなど、アジアの各地を自ら飛び回って、いくつかの新しい保険ビジネスを仕掛けようとしている。そうやって、リーダーとしての自分の背中を見てもらうことで、部下たちにも育ってほしい。自分がその忙しさを楽しんでいることは、言うまでもない。

これまで、いくつものぐちゃぐちゃを見てきた。それでも、一つひとつコツコツと整理していけば、やがて視界がパッと開ける。すると、そこには宝の山が現れた。

その光景を彼は、これからも見ていきたいのだ。