パイロットに
なりたかった男

  • 機械カンパニー
  • プラント・プロジェクト部
  • 水・環境プロジェクト課長(取材当時)
  • 1998年入社

市礒 肇Hajime Ichishi

Conflict
5 9

あちこちの空港に降り立ってきた。その大半は、ただの玄関口に過ぎない。だが、彼にとって、ここだけは違う。

イギリス・ヒースロー空港。

すぐそばのレイクサイド、緑の中に佇むプラントは、彼が手がけたものだ。

いつものように着陸間際の機内からも見下ろしたそれを、空港内からうっとりと見つめる。行き交う搭乗客の合間に、制服に身を包んだクルーの颯爽とした姿がある。

本当は、パイロットになりたかった。そして、いちばんなりたくなかったのは、商社マンだった。


だから、就活でも金融やメーカーを中心に回っていた。ピンとくる会社になかなか巡り会えず、OB訪問で出会ったのが伊藤忠商事だった。

「伊藤忠って、楽しいですか?」

「せやなー、楽しくはないわな」

「えっ?」

「キミだけに話したるけど、これは僕の仮の姿や。そのうち牧場を持って羊を飼うねん。もひとつ、ゴルフ場のオーナーになって、有名なツアーも開いたろ思てる。そんでな……」

仕事の詳細や、やり甲斐はいっさい語らない。これでは面接も受けられないと、もう一人OBに会ったが、結果は同じだった。将来の夢や、自分の人生がいかにバラエティに富んでいるかを嬉々として話し続ける。

この会社、なんなんだ?

その「?」を知ってみたい。人としての魅力にあふれた先輩たちと一緒に仕事をしてみたい。これが、彼に伊藤忠商事を選ばせた理由だった。

予想通り、配属先の先輩たちに圧倒されっ放しの新人時代となった。一件で数千億円単位の製鉄所や化学プラントを、アジアの各地で首相クラスの人物に売り込んで回る。それでも飽き足らずに、「もっとこんなことがしたい!」と、大きな夢を語る人間の集まりだった。

部署の飲み会で、先輩が彼に尋ねる。

「市礒もそろそろじゃないか。来年は三年目だろう」

「はい! 来年からは、皆さんのようなデカい仕事をやっていきたいです!」


だが、描いていた来年は来なかった。

一九九七年、タイの通貨暴落に端を発した〈アジア通貨危機〉。その煽りをどっぷりと受けたインドネシアやマレーシアで、伊藤忠商事は数多くのプロジェクトに関与していた。現地通貨建てによる差益の損失、事業の凍結などにより、損失はどんどん膨らんでいく。

彼のいた重工プロジェクト部の赤字額は百億円を超えるインパクトに及んだ。会社全体の利益が百億円だった当時、あまりに大きな痛手だった。

「お前の部のせいで、こっちまでボーナスカットされたよ」

同期からの冗談も、冗談として受け止められない。重工プロジェクト部は消滅し、約四〇人のメンバーたちは、他の部署に散っていった。

社内では急遽、各部署からの寄せ集めによる、債権回収チームが設置された。それが、彼の異動先だった。なんだか納得がいかない。まだ大きな仕事を担当していなかった自分は、損失も出していないのに……。

「なにも悪いことをしていないのに、なんで自分がこんな目に遭うんだ」

このときの彼には、やり場のない怒りと悔しさしかなかった。

まさか、こんなかたちでインドネシアに来るとは……。空港を出た彼は、クルマで二時間ほどの、東部の街にあるタイヤ工場へと向かった。こちらは四〇億円を貸しているが、あちらの負債額は百億円にまで膨らんでいる。つまり、このままでは回収不可能だ。日本を発つ前、上司は彼にこう言った。

「いいか市礒、彼らの持ってるモノを売るか、または持ってるリソースを有効に生かしてお金を生むのがお前の仕事だ。モノには限りがあるから、リソースでどうにかしなきゃいけない」

「は、はあ。どうにかですか……」

「当初描いていたビジネスプランのどこが悪くて、どこを変えれば赤字が黒字になって、なにを追加すると我々にお金が返ってくるのか。それだけを考えろ。新規営業で数字を上げようなんて色気は出すなよ」

経験のない三年目社員を一人でポンと送り込むなんて、ムチャぶりにもほどがある。彼はずっと気が重たかった。だが、もともと大学ではロボットをつくっていた人間である。メーカーの工場を見て回るうちに、意外と面白いミッションだな、と惹かれ始めた。それに、あのとき上司は、最後にこう言い足したのだ。

「いくら回収してくるかは任せる。お前の自由だ」

自由には責任がともなう。そうか、オレが責任者なんだ。それなら、やってやるしかない!

タイヤはどんな店で、どんな人に、どうやって売られるのか。客はどんなタイヤを好むのか。どんな販路で、どこにどれだけ在庫を持てばムダがなくなるのか。こうした調査や分析をする傍ら、追加融資の交渉のため銀行をまわった。二百人いた従業員を約六割にスリム化した。最新鋭の生産設備の更なる効率化にも着手した。

彼の戦略は正しかった。インドネシアで奔走した約二年間で、会社は攻勢に一転し、キャッシュを生み出すまでになった。交渉の末、オランダのタイヤメーカーへの売却も決まり、融資金の回収に漕ぎ着けた。

ヒースロー空港に初めて降り立ったのは、入社五年目の春だった。

機械カンパニー・環境プロジェクト課の一員になった彼は、イギリスでのプラント建設を検討していた。EU拡大の動きの中で、ごみ処理に関する規制が厳格化される。フランス・ドイツは規準を満たしていたが、埋立処分に多くを頼るイギリスにとって、焼却プラントの建設は急務となっていた。五年後には、既存の七基から二〇基まで増設することが見込まれる。この市場を見逃す手はない。

彼が目を付けたのは、英国の企業連合がすでに計画を進めていた、レイクサイドの案件だった。白紙からのスタートの場合、地域住民から疎まれる存在のごみ処理プラントは、建設認可の合意までに長い時間を要する。結局、事業化できないケースも少なくない。

だが、認可済みのレイクサイドなら、その心配は無用だ。既にプラント建設を請け負うことが決定している企業についてリサーチすると、旧式の設計であることがわかった。そこを突くかたちで自分たちの優位性を売り込めたなら、ひっくり返すこともできるのではないか。十分に勝機はある、と彼は踏んだ。

もちろん、そのためには、より優れた提案が求められる。お互いに金額を下げていく体力勝負では、儲けが出ない。そこで彼は、プラントの付加価値を上げることにした。ごみ焼却時に発生する廃熱を使って高効率で発電するプラントなら、売電による利益増も見込め、環境にもやさしい。

その分だけ、事業者の負担する初期投資は高くなる。そこで彼は、新たに事業会社を設立し、向こう四年の運営とメンテナンスまでを請け負うスキームをつくった。これなら、初期の運営コストを抑えることに加え、事業者に運営ノウハウが蓄積できる。現地の銀行やファイナンシャルアドバイザーにも力を借り、交渉を繰り返した。

この戦略が功を奏した。提案が認められ、他社の受注をひっくり返すかたちで、契約を勝ち取ったのである。

着工を迎えてからも、事業会社設立の手続きやファイナンスのための銀行との交渉は続く。建設については、プラントメーカーのT社に任せていた。今回提案したタイプの焼却炉は、日本でもこの会社にしかつくれない。彼らにとってもこの案件は、欧州へと進出する大きなチャンスだった。

「市礒さんが契約さえ決めてくれたら、あとはうちが全部やります。自信があります。任せてください!」

「私も心強いです。よろしくお願いします!」

実際、伊藤忠商事は建設フェーズにはタッチしない、という契約内容だった。それでも、投げっぱなしというわけにはいかない。月に二度は、雑誌やカップ麺など、日本からの土産を携えて現場事務所に顔を出す。コミュニケーションは欠かさなかった。

それが発覚したのは、着工から一年目のことだった。建設の進捗が遅れ気味なのは、毎月の経理書類のチェックで気付いてはいた。そろそろ建屋が姿を現し始めてもいいはずなのに、その気配はなく、様子がどこかおかしい。彼はT社の担当者に尋ねた。

「ひょっとして、なにか問題を抱えていませんか?」

「申し訳ございません! 実は……」

プラントを構成する主要機器の納入が遅れ、この先の見通しが立たない状況になっていた。

EU拡大によって、予定していた東欧の溶接工が、報酬の良い欧州大陸諸国に流出してしまったためだ。

「なんとか対処できませんか」

「は、はい。少しお待ちください」

そんなやりとりを数週間繰り返したが、事態は一向によくならない。

彼は焦った。

こうなったら、仕切り直すしかない。

主要機器を調達できる別のサプライヤーを探し出し、そこにT社の人員を派遣して、一からの製作に着手した。だが、工期が延びる中で、すでにT社の負担は膨大な額におよんでいる。契約条項にもある「撤退」という道を選んでもらったほうが、T社の傷は浅い。彼はその方向で協議を進めることにした。欧州企業なら、ここはドライに割りきって降りる局面だ。

しかし、T社の決断は違った。

「うちに続けさせてください!」

「お気持ちはわかりますけど、このまま続けたら、T社さん、数十億は足が出ますよ。それだったら……」

彼の言葉を遮るように、担当者は言った。

「恥です! そんな、日本の恥になるようなことはできません!」

「……」

この一言に、彼はハッとさせられた。自分だってそうなのだ。日本を代表して戦っている。意地は捨ててはならない。T社が新たに日本のエンジニアたちを集めて工事を続ける一方で、彼は銀行やスポンサーを必死に説得して回った。T社での継続が正式に認められたのは一年後のことだった。日系の銀行担当者は最後に言った。

「もう、信じるしかないですよね」

当初三年だった工期が四年半となったが、T社は最後まで仕事をやり遂げた。その出来映えは、業界内外からの称賛を受け、竣工式ではエジンバラ公もスピーチを贈った。いまでは、イギリス国内のごみ処理の十五%を伊藤忠が担うまでになっている。

完工した夜には、T社の担当者たちと日本料理の店で労をねぎらい合った。窓の外に、ロンドン名物の二階建てバスが行き交うのを見ながら、日本酒を酌み交わす。宴の途中、担当者が頭を垂れたまま動かない。どうしたのだろうと覗き込むと、両目にいっぱい涙を溜めていた。

「いっちゃん(市礒)には、ほんとに悪いことしたけど、ありがとうな」

そのあとのことはよく覚えていない。翌朝目覚めたのは、担当者の部屋のソファーだった。

入社九年目の冬、ヒースロー空港に妻がやってきた。彼がロンドン駐在になったのを期に、開発職として勤めていた飲料メーカーを退職し、夫婦で移り住むことになったのだ。間もなく二人は、男の子を授かった。故郷の奈良のように緑豊かな環境で育てたい。三人はロンドン郊外へ引っ越した。

そこに、孫の顔を見るため、父と母が訪れるようになった。父は、建設関係の部署に勤める商社マンだった。家族全員で一緒になにかをした思い出はほとんどない。父は毎日遅くまで帰らず、休日は接待ゴルフか、家にいてもゴロゴロ過ごしていた。商社マンにだけはなりたくないと思っていたのは、そんな父親の背中を見ていたからだ。

「ははは、どうだ、オレのことがよくわかっただろう」

「まあ、DNAかもしれないね……」

彼は伊藤忠欧州会社の経営企画部マネージャーとして、欧州ブロックの経営支援や開発組織の立ち上げをするポジションについていた。機械だけでなく、繊維やエネルギーなども横断的に見る。「モノを売るだけでは成長できない」と、M&Aを推進する方針も打ち出した。リーマンショックの影響で、ファンドが競争力を失った分、投資しやすい環境にもあった。だが、メンバーたちの腰は重かった。商社という組織で長年培われた殻は簡単に破れない。

それなら、成功事例を積み重ねて、スタンダードを変えていくしかない。彼は、周囲を巻き込みながら、前例のないことをやり続けた。

その一つが、水道事業への参画だ。イギリスでは、三〇年前から民営化が進み、配管など老朽化した設備の更新が進む。住民負担と投資のバランスを考慮し、漏水率は二〇%。翻って日本はというと、漏水率三%、安全で味も保たれているが、その分だけ税負担が大きいのも事実だ。すでに水道インフラは整備されているものの、その維持・補修の効率化が求められる先進国。一方、人口増加や工業化の進展により深刻な水不足に悩む発展途上国。水を巡る争いすら懸念される、そんな社会の中で水道事業とはどうあるべきなのか。バランスのとれた解を探り、新しいモデルを編み出して、世界各国や日本にもフィードバックさせたい、と彼は考えている。


イギリスに続いてスペインの水道会社を買収し、社外取締役にも就いた。二〇一七年にはセルビアでもごみ焼却発電事業権を獲得している。彼が欧州で抱えている事業は現在七つにのぼる。イギリス便に乗る機会はじつに多い。


ヒースロー空港に来て、プラントをひとしきり眺めたあと、いつも思う。

本当は、パイロットになりたかった。

いや、過去形ではなく、いまからでもなりたい。視力のせいで断念したが、いまはその規制がない。最近は、なり手が不足しているらしい。年齢? それがなんだ。世界のどこかに、雇ってくれる航空会社があるかもしれない。

そして、彼はふと考える。

いま自分がOB訪問を受けたら、あのときの先輩と同じ調子で、しゃべりまくるだろうな……。