その晩、彼はバングラデシュ・ダッカ市内のプールにいた。日本に比べると、水はきれいとは言えない。それでも、気晴らしできる場があるだけ、まだいい。
駐在して半年、彼が挙げた数字は、ゼロだった。
プールに飛び込み、向こう端まで泳ぎ、ターンする。彼のまわりに、水しぶきはほとんど上がらない。速く泳ぐためには、水の抵抗を減らすフォームが大切だ。
プールサイドに上がり、静かにゆらめく水面を見つめながら、彼は思う。
「相手が水なら、うまくコントロールできるのにな……」
幼い頃から、泳ぐのが好きでたまらなかった。中学・高校・大学では水泳部に入った。大学の屋内プールでは一年を通して、授業前の早朝に泳ぎ、昼休みに泳ぎ、放課後に泳いだ。やり始めたことは、とことん突き詰めないと気が済まないタイプだと思う。
充実した学生生活の中で、モヤモヤした思いが一つだけあった。父親の転勤にともない、国内各地で生活をしてきたが、旅行も含め国外に出た経験はなかったことだ。
海外の水にも触れてみたい。
大学一年のとき、サンフランシスコでホームステイをした。十日ほどの短い期間ではあったが、新鮮な体験となった。現地で働く日本人にも出会い、大いに刺激を受けた。その影響で帰国後に留学生と交流するうち、ある思いが芽生えてきた。
「オレも、海外で生活してみようかな」
「いいね。でも水泳はどうするんだ?」
「じつは、このまま水泳ばかりやってていいのか?とも思ってるんだ」
こうして大学三年のとき、ワーキング・ホリデーでニュージーランドに約九か月渡った。休部届を出して海外にやって来たものの、やはり身体が水泳を求めてくる。帰国したら万全の泳ぎができるようにしておきたいという思いが、現地のプールへと足を運ばせた。あっという間だったサンフランシスコとは違い、長期間日本を離れたことで、海外で働きたいという気持ちがますます強くなっていた。
就活では海外で働けると聞き、いくつかの商社を訪問した。話を聞いてもなかなかピンとくる会社がなかった中、唯一の例外が伊藤忠商事だった。一次選考の面接官は、ラグビー部出身だった。志望動機すら聞かれることなく、ラグビーと水泳の他愛もない会話ばかりで時間が流れていく。ただ、それ以外の話が一つだけあったことを彼は明確に覚えている。
「酒德くんの人生で、最も悔しかったことって、なに?」
彼は迷わず、中学時代の話を語り始めた。二年生のとき、絶対に優勝!との意気込みで臨んだ市の大会で、わずか〇・〇一秒差で二位に甘んじた。それでも一位は三年生の選手だったから、翌年の優勝は堅いと思った。ところが、日本記録保持者が市内の中学に転校してきた。翌年、またも僅差で優勝を逃してしまう。
この話をじっと聞いてから、面接官は口を開いた。
「優勝を逃した結果なのか、それとも油断したプロセスなのか、なにが悔しいのかを意識するのが大事だよね」
こんな一言をかけてくれる人がいる環境なら、目標を共有し、力を合わせて働けるのではないか、と彼は直感した。
「この会社は、自分の水に合っている」
入社後、繊維カンパニーに配属された。一〇〇人いれば、九九人は華やかなブランド部隊を希望する中、彼は大阪に本拠を置く繊維原料部隊に手を挙げた。糸や生地などを基礎から学べる部隊である。しかし、繊維のことを語る以前に、社会人としての基礎を叩き込まれる新人時代となった。
「なんで時間ちょうどやねん? 五分前集合が当たり前やろ」
「会食したら、翌朝いちばんに電話入れて、お礼言わなあかんやろ」
毎日のように指摘を受け、学生気分が残っていた自分の甘さを痛感した。
二年目に、語学研修を兼ねた上海駐在となり、早くも海外勤務の夢が叶う。だが、ここでも、挨拶の仕方や円卓での席順など、ビジネスの基本動作を教え込まれる毎日だった。
翌年、彼は大阪に帰ってきた。
綿を買って、糸をつくる。糸を買って、生地をつくる。生地を縫製して、問屋や小売店に納める。当時の繊維業界は、糸・生地・製品の取引が完全に分断されていた。いずれとも取引できるのは商社に限られる。エンドユーザーが求める製品に適した糸や生地を、それぞれに伝えつなげられることに、彼は大きな面白みを感じていた。
担当した名古屋・岐阜地区は、彼の出身地ということもあり、取引先から可愛がられた。もちろん、商売となると話は別で、非常にシビアな世界である。
あるとき、商品の納品期日が一週間遅れてしまった。しかも検品したところ、品質に問題のある商品が一部含まれているという。彼は、取引先に駆けつけた。
「酒德さん、困るな、こんなことじゃ」
「申し訳ございませんでした!」
「社内でちょっと協議させてもらうよ」
その数日後、取引先から一枚の伝票が届いた。契約の金額から大幅に値引きされたものだった。
「酒德、なんやこれ?こんなん受け取るなよ!」
「でも課長、一方的に送られてきちゃったんですけど…」
この一件は、その後の交渉でなんとか収まり、取引先とも笑い話にできるようになった。だが、もとを辿れば、納期を守れなかったこちらに責任がある。
事前に起こりうることを予測して入念に準備しておけば、関係者全員が気持ちよく、スムーズに仕事を進められたはずだ。
「いいか酒德、仕事は段取り九割だぞ」
上海時代に先輩から教え込まれ、当時はピンと来なかった言葉が、骨身に染みた出来事だった。
こうしたつまずきのたびに彼は思う。
「水泳をやっていて良かった」
社会に出てからも、週に一、二度はプールに通っていた。水はいつも、彼をやさしく受け入れ、自信を取り戻させてくれる。トップを競っていたあの頃の自分を思い起こしながら、彼はひたすらに泳ぐ。
「オレはもっとやれる。まだまだこんなものじゃない」
入社八年目の初夏、日本を代表するアパレル企業がダッカでの生産を開始した。業界内でも、バングラデシュを開拓する気運が高まっている。伊藤忠もその例外ではない。
ダッカに繊維部隊はあるが、小ロットで高品質が要求される日本市場向けに衣類を生産するビジネスとなると、過去の実績はほぼゼロだ。加えて、バングラデシュは国連も指定するアジアの最貧国であり、駐在員の日常生活は不便を強いられる。
だから、部長の口ぶりは、どこか遠慮がちだった。
「酒德、バングラデシュに行ってもらいたいんだけど、どうだろう……」
対照的な口調で、彼は力強く即答した。
「行きます!」
自分が必要とされるのなら、どこの国でも進んで行きたいと思っていた。
バングラデシュには糸も生地も製品も工場が揃っているため、それらすべての知識を持つ人間でないと務まらない、という理由による抜擢だった。入社直後からずっと原料部隊で培ってきた経験が、新しい扉を開いてくれたのである。
「これで、晴れて海外で仕事ができる」
それまでなかった日本市場向け衣類の生産拠点の新規開拓というチャレンジに胸が躍り出す。その夢に立ちはだかる大きな壁を、彼はまだ知る由もなかった。
当時、バングラデシュの多くの工場は、欧米のアパレル市場向けのビジネスを手がけていた。誰もが知るようなファストファッションの代名詞のような世界的アパレル企業を相手に、大量の製品を送り出している。チームを組むことになった四人のナショナルスタッフは、欧米市場のプロフェッショナルだ。
「いまさら日本向けの商売をあえて始める理由などない。最大手との取引でさえ、欧米の十分の一の規模しか見込めない、ちっぽけな市場じゃないか」
「しかも、日本からやってきた若造になにができるというんだ」
新規開拓で回った工場の反応も素気ない。バングラデシュ国内には、大小合わせて五千社の繊維関連工場があると言われている。その中から品質を担保できる工場をなんとか探し出しても、そこから先にはなかなか進めない。
「サンプル? いますぐオーダーを確約してくれるなら、つくってもいいけど」
サンプルの出来映えを入念にチェックしたうえで取引を始めるという、日本の常識は通用しないのだ。
ようやく説き伏せた工場を、日本から顧客を呼び寄せて見学したことがあった。
「それでは社長、この話を日本に持ち帰って検討させていただきます」
「おい、酒德、一体どうなってるんだ?この男は責任者として来たんだろ!」
「はい。ですが、物事を一歩ずつ進めるのが日本のやり方なんです」
日本独特のビジネスの慎重さと、バングラデシュの意思決定のスピード感には、大きな隔たりがあった。ようやく契約にこぎつけるも、初回オーダーが日本側の都合で延期になると、工場の社長はピシャリと告げた。
「もう二度と、うちには来ないでくれ」
日本の顧客サイドも納得がいかない。
「えっ、わざわざダッカまで出向いたのに、一回オーダーを延期しただけで、商売できないってこと?」
商習慣の大きく異なる二国間の板挟みが続いた。バングラデシュに来て半年、数字をまったく出せない日々が過ぎていく。
「オレの存在意義はゼロじゃないか」
意気揚々と乗り込んで来ただけに、反動も大きかった。重たい足取りで、プールへやって来ては泳ぐ。それが何度も繰り返されていた。日本と比べると、水はきれいとは言えない。だが、泳げば身体は前へと進んでいく。彼はふと気付いた。
「水が合わないなどと逃げていては、ビジネスは始まらないじゃないか」

まずはチームの空気を変えていこう。
四人のナショナルスタッフたちは生地を縫い上げる仕組みづくりに関してはエキスパートではあったが、糸と生地の知識はほとんどない。それを一から教え込むことで、繊維産業の全体像を捉えてもらうように働きかけた。
コミュニケーションも課題だった。現地特有のヒエラルキーがあり、最上位のナショナルスタッフ経由の報告しか上がってこない。その壁を取り払うべく、メンバーそれぞれが日本側と直接やりとりするようにした。日本の情報に直に触れ、商習慣に慣れさせる狙いだ。
染み付いた習慣は容易には変えられない。それでも、前に泳いでいくだけだ。こちらがどれだけ真剣に考えて接しているか。それが伝わると、相手も次第に前のめりになってくる。そこには国境などなく、日本もバングラデシュも変わらない。メンバーらは彼を認め、日本向けのビジネスに興味を持つようになった。
協力工場の新規開拓にあたって大切にしたのも、お互いの真剣さと熱意だった。過去の実績やコストの安さよりも、工場に足を踏み入れ、フィーリングが合うか否かにプライオリティーを置く。サンプルの出来栄えも重要だが、むしろ工場で働くスタッフと友人のように付き合えるかどうかを最終的な判断基準に据えた。
その効果がじわじわと表れた。
二年目から、ビジネスが動き出した。実績が積み上がると、プラスのベクトルが生まれ、ぐんぐんと流れに乗っていく。大阪時代に実践していた、日本の顧客向けの糸〜生地〜製品の一貫した生産プログラムを、バングラデシュの生産背景でもシーズン毎に組めるようになった。
結果、千人規模の協力工場を七社開拓することができた。商売が動き始めると、小さなトラブルもついて回る。それでも、お互いに問題から逃げたり目をつぶったりするのではなく、改善策をじっくりと話し合った。こうして信頼関係を築いた結果は、協力工場の社長たちの言葉の端々にも表れ始めた。
「うちと付き合ってくれる限り、日本の他の会社とは取引しないよ」
「酒德が言うなら、その仕事も喜んで受けさせてもらおう」
いつしか伊藤忠のバングラデシュでの日本向けアパレルのシェアは、欧米向けに並ぶようになっていた。
駐在四年目に、香港支店に移駐となり、彼のフィールドはバングラデシュからアジア全域へと広がった。タイ・インドネシア・ベトナムなどを一元管理し、各国各工場の得手不得手を見極めながら、アジア全体を横断した新しいアパレルビジネスをつくっていく。
彼は約二〇社との新しい商売を通して、赤字だった担当部署の黒字化を二年で成し遂げた。
十三年目の二〇一五年、東京本社の生産部隊に、ブランド部隊出身の部長が就任し、新たな戦略を打ち出した。
「生産とブランドのタテ割りではなく、両者を融合した商売ができないか」
前例もなく、利益につながる確証もない話である。社員は皆、目の前の仕事に追われている。そんなところに、彼が香港から戻ってきた。
「酒德、ちょっとやってくれないか」
「もちろんです。やらせてください」
新しい水に向き合うことは自分の性に合っているように思える。
彼が担当したのは、ハワイで創業して六〇年、カジュアルでもフォーマルでも着こなせるアロハシャツを製造販売する歴史あるブランドだった。そこにいかに自社の生産背景を掛け合わせるか……。
シャツだけでは、生産工場への発注量もたかが知れていて、大きな商売にはならない。そこで、彼はブランドに提案した。
「アロハ柄の生地を使って、ジャケットやパンツ、帽子やカバンや靴といったアイテムも展開していきましょう」
もちろん、即座に提案が歓迎されるわけではない。ブランドには、独自につくり上げてきたコンセプトがある。彼は、経営層やデザイナーたちとの打ち合わせを幾度となく重ねた。
ブランドビジネスにおいては、高価格に設定すると売上が伸びず、安価にするとその価値を毀損することになってしまう。各アイテムの価格帯のバランスを保ちながら、利益率も上げていかなければ商売にならない。
そこで役立ったのが、駐在時に培ったアジア各国とのネットワークだ。得意とする商品の縫製技術や発注ロットに応じて各工場を使い分ければ、より少ないコストで利益を生み出せる。
こうして彼は、ブランドからの指示通りに生産を請け負うのではなく、現地の縫製工場の特徴を踏まえた提案型のビジネスをつくり出した。彼の経験の賜物から生まれたこの新しい波は、とてつもなく大きくなった。通常では考えられないような利益率を叩き出したのだった。
彼はいまも、毎週一度はプールに行き、ときどき大会にも出場している。忙しければ忙しいほど、泳ぎたくなるのはなぜか。答えははっきりしている。
