彼女の
帰る場所

  • エネルギー・化学品カンパニー
  • 天然ガス事業開発部
  • LNGトレード課(取材当時)
  • 2003年入社

田中 亜希子Akiko Tanaka

Conflict
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その朝、二歳と四歳の子どもたちを電動自転車に乗せ、保育園に預けると、彼女は駅へと向かった。

カツカツカツと響くヒールの音や、ピッと鳴る自動改札の電子音や、ホームのアナウンスが、彼女の耳に心地よく届く。地下鉄の混雑さえも、自分がその一員であることを実感させてくれた。

「ようやく、ここに帰ってこられた」

三年七か月の産休・育休を終えた彼女の、復帰第一日目のことである。

待ちに待った日が、始まるはずだった。


商社マンだった父親の駐在にともない、小二から中一までをニューヨーク近郊で過ごした。

日本人街区ではない場所に住み、現地校に通うことになったが、簡単な英会話を覚え、友だちと慣れ親しむのに、それほど時間はかからなかった。日本で小学校の教員をしていた母親は、PTAに参加するなどして、さまざまな国や文化的バックグラウンドを持つ父兄たちと積極的に交流していた。

「いろんな場所を知っておきなさい」

出張や接待でほとんど家にいない父親だったが、年に二回長期休暇を取り、彼女と弟と母親を北米のあちこちに連れて行ってくれた。週末はよく、ホームパーティの来客たちと父親との仕事の会話を、子どもながらに楽しく聞いていた。

「私も、海外を舞台に働きたい」

帰国して高校・大学と進むにつれ、ごく自然にそう考えるようになった。

就活では他の商社も受けたが、面接官との会話が最も噛み合ったのが伊藤忠商事だった。最終面接では、いくつかの堅い質問から一転、こう訊かれた。

「ところで、カラオケは好き?」

「大好きです!」

笑顔でうなずく面接官たちを見ながら、彼女は思った。

私とこの会社はきっと、相性がいい。

自分と同じ道を選んだ娘を応援しないわけがない。父親は彼女に、助言を連発した。

「誰よりも早く出社して、みんなの机を拭いておきなさい」

「書類のコピーを頼まれたら、隅々まで目を通してから渡しなさい。なにかの勉強にはなるから」

「雑務でも、喜んでやりなさい。ムダな仕事なんてひとつもないんだぞ」

こうした教えも忠実に守りながら、人一倍の努力をしたい。自然と意気込む理由が彼女にはあった。配属されたエネルギー部門で初めての女性総合職だったのである。

その新人をどう扱えばいいのか?

周囲には、戸惑いもあったのだろう。ふだんの仕事こそ丁寧に教えてくれるが、退社後の会食にはなかなか声をかけてもらえない。カラオケのお誘いがないのは言うまでもない。

会社からの期待は大きかった。石油ビジネスというダイナミックな仕事を、入社間もない女性に任せる。それは、大きな仕事を若手にどんどん担当させる社風をアピールするのにもってこいだった。ある日、広報担当者がやってきて、彼女に言った。

「×××って番組、知ってるよね。あれに出てもらうことになったから」

「え!? 私がですか?」

「うん。やっぱり画的には海外もほしいから、行ってもらうけど、よろしく」

「は、はい!」

誰もが知る経済ドキュメンタリー番組に、会社を代表して取り上げられる。そんな強運に、彼女はさらに力が入った。

入社一年目の八月からの半年間は実務研修としてシンガポールで、続く二か月は長期出張としてモナコで過ごした。ずっと一緒に生活してきた母親と、これだけの長期間離れるのは初めてだったから、じつを言うと寂しさは常にあった。ただ、どちらも同世代の現地スタッフが多く、異国での毎日は公私共に充実していた。

帰国後は、原油や重油のデリバリー担当として、タンカーのオペレーション業務を任された。

最大級のタンカーで一度に運ぶことのできる原油は約三〇万トン(約二百万バレル)に及び、これは日本で一日に消費される約二分の一に相当する。つまり、期日通りにきちんと着船しなければ、日本の国民生活や経済活動に大きな打撃を与えてしまう。

船舶の運航にとって、最大の敵は天候である。台風の時期など海が荒れると、それだけ遅延が発生する。彼女の仕事の真価が問われる瞬間だ。

原油の積み地や揚げ地の順番をいかに変更すればよいか。積みのタイミングに間に合わない場合は、別のタンカーをいかに手配すればよいか。それらにともなう契約変更や入港審査の書類づくりなども欠かせない。

あるときトレード担当の先輩が、彼女にこう言った。

「デリバリーも採算性に意識を持ってやらないとダメだよ」

船は、港に一日停泊するだけでも膨大なコストが発生する。デリバリーのコストを少なくすることで、トレードの利幅を大きくすることができる。船を的確にコントロールすることも、商社の「商い」なのだ。仕事の面白さがまた一つ、彼女に加わった。

その先輩がシンガポール駐在となって席が空いたのを期に、彼女は億単位の金額を動かすトレーダーの一員に抜擢された。もうすぐ入社三年目を迎えようとする、二〇〇五年三月のことだった。

担当は、日本の石油会社に納める原油の売り買い。エネルギー部門に配属になって以来、ずっとやりたかった仕事でもある。すぐ近くで先輩たちがやっていることも、デリバリー担当のときから自分なりに見てきたつもりだ。彼女はこれまで以上に燃えた。どんどん成果を上げ、部署や会社の役に立ちたい!

ところが、傍から見るのと、実際にやるのとでは大違いだった。

「売ります」

「じゃあ、買います」

そんな単純な話で済まないことはわかっていたが、一口に原油と言っても、産地や品質、用途は多種多様である。世界情勢によって相場が常に変動していく中で、トレード交渉は一筋縄ではいかない。

価格と年間購入量をあらかじめ設定するターム契約ならば、一年を通しての浮き沈みは折り込み済みで、一喜一憂することはない。

一方、契約時点の価格で、一対一の相対で条件を決めるスポット取引では、市場の動きがタイムリーに反映される。中東の紛争、OPECの増産・減産といった状勢変化により、常に油価は大きく変わる。

「昨日売っておけば……」

「もう一日待っておけば……」

大きな取引なだけにトレーダーにとって、失敗したときの後悔は決して小さくない。

ある日、彼女が落札していたあるアフリカの原油を買いたいというスポット取引オファーが入った。アフリカの地勢リスクを考慮し、産地から直接買うのではなく、船の手配も含めて商社から買いたいと石油会社は言ってくる。いつものことである。だが、提示された購入量だけはいつもとは違っていた。

「ひゃ、百万バレル!」

それまで、一〇万バレル程度の取引の経験しかなかった彼女にとって、あまりに大きな数字だった。

自分が買っておいた原油をいくらで売るべきか。買った時の価格を石油会社はほぼ把握しているうえ、伊藤忠の他に数社にもオファーを出している。提示する金額が高すぎても売れないし、安すぎたら利益にならない。

そんな戦略を考えるところが、彼女にとっての醍醐味でもあった。売り買いの金額やタイミングを判断すること、相手に納得してもらえるように交渉をまとめること、結果が目に見えてわかること。買い付けから販売までの交渉に自分が携わることができるという実感が、身体いっぱいに満ちる。

だから、交渉が入りそうな日は朝から落ち着かない。ジワッと冷や汗が出たり、キュッとお腹が痛くなることもある。利益を出せればよいが、損失を出したときには、気持ちがどよーんと沈む。

どよーんを減らすべく、彼女は日々のメモを欠かさなかった。さまざまな情報や、それに対する動きやその結果などを書き留める。その蓄積が勘を磨いていく。大学ノートはどんどん増えていった。

この日は、百万バレルという量に加え、もう一つ彼女の気持ちを揺さぶる要因があった。それは、買ったときよりも市場価格が大きく上がっていたことだ。

「今回は、儲かって当たり前なんだよな……」

このことが逆に、彼女の鼓動をドキドキと高鳴らせた。自分の交渉次第で、本来得られていたはずの利幅を減らしてしまうかもしれないからだ。

電話での交渉は、午後に始まった。こちらから数字を提示する。しばらく時間を置いて、相手から数字が提示される。こうしたやりとりを、一バレル一セント単位で繰り返していく。

夕刻を過ぎると、外出していた先輩たちが一人また一人とオフィスに帰ってくる。すぐそこにいる後輩が、大きな取引の真っ只中にあることはみんな知っている。だが、声をかける者は誰もいない。「頑張れ」などという気休めにもならない言葉は、彼女も必要としていない。みんなはパソコンや書類に目をやっているが、それぞれのデスクから見守ってくれている。彼女には、そのことがよくわかった。

もう、ここでいいか。いや、まだいける。彼女は、相手に数字を提示し、返答を待つ。窓の外はすでに真っ暗になっていたが、明るく照らされたオフィスを離れる者は、誰一人としていなかった。

相手から返答が来た。

「金額をこれだけ、まけてほしい」

「え? あの額では高いですか? うーん。そうですねー……」

時計の針は、二一時を指そうとしている。ここで決めるか、と思った瞬間、目の前のパソコンに社内メッセンジャーがピコッと届いた。

〈まけるな! 粘れ!〉

すぐ傍にいる先輩からだった。

心の中で「はい!」と答えると、一セントも譲れない旨を、彼女は電話越しに伝えた。さあ、どう出てくるだろう。しばらくの沈黙のあと、相手が口を開いた。苦々しさのない、さわやかな声だった。

「いやー、田中さんには敵わないな。わかりました。これでいきましょう」

「ありがとうございます!」

電話を切った彼女のもとに、先輩たちが集まってきて、次々に声をかける。

「よくやったなー!」

「おつかれさん!」

「みんなで祝杯を挙げに行こう!」

この晩、オフィス近くのカフェで飲んだ生ビールは、それまで味わったことのない美味しさだった。長時間の交渉で喉がカラカラだったし、なにより先輩たちの温かい眼差しが沁み入ったから。百万ドルの利益を出した、この日のことは一生忘れられない。

その二年後となる二〇〇八年には、原油トレードの中心地・シンガポールに駐在することになった。担当は東南アジア・オーストラリア・中東の原油である。現地から各国への出張を自分自身で手配し、上司の同行なく一人で行動するようになったとき、一人前として認められたのを感じた。この頃には、入社当初のような、初の女性総合職として特別扱いする空気はすっかりなくなっていた。というのに今度は、女性であることを彼女自身が意識せざるを得なくなった。

「やはり、男性とは違うんだよね……」

彼女は、お腹に子どもを授かり、母親になろうとしていたのだ。


※伊藤忠商事では、効率的な業務推進のため、二○一三年度より二○時以降の残業を原則禁止とする朝型勤務制度を導入。本案件当時は朝型勤務制度導入前のため、二○時以降まで勤務することもあった。


同時期にシンガポールに駐在していた夫も彼女も、子どもは二人欲しいと思っていた。ただ、産休から復帰して間もなくまた産休ということでは、会社にも迷惑をかけてしまう。自分としても中途半端な復帰はしたくない。ならばと、人事部にも相談し「むしろ連続して産休を取った方が良い」との結論に達したのだった。

第二子を順調に授かり、八月に出産したあと、周囲に後れをとりたくないという思いもあり、規定で認められている期間よりも短く育休を切り上げ、翌年四月の年度開始に合わせて復帰するつもりだった。そんなとき、母親が猛反対した。

「まだ離乳もしてないのに、八か月の子を私に預けて復帰しても、全部が中途半端になるでしょ」

「でも、一年で復帰してる後輩もいるのよ。ずっと休んではいられない」

「ここで戻ったら、きっと、自分のことが嫌になるよ」

母親に押し切られるかたちで、彼女は連続三年七か月の育休・産休を取った。ひっつめ髪で、近所のママ友たちと遊ぶ毎日。いまとなってはいい経験だったが、当時はただ焦りしかなかった。会社にいたときとは話題もまったく違うし、英語で話すこともない。スーツとヒールとは無縁の生活だった。

「これだけブランクがあって、果たして復帰後に通用するのだろうか?」

そんな彼女の焦りは、復帰して職場に入った途端に消え去った。石油会社が統廃合されている。原油価格が半分にまで下がっている。業務ソフトの機能が刷新されている。新しいことをどんどん吸収できるのが楽しくて仕方なかった。自分はいわば、乾いたスポンジだったのだろう。

だが、それも最初の一か月だけだった。ビジネスの勘が戻ってくると、もっとこうしたい、もっとああしたいと、欲が出てくる。サハリンのカンファレンスに参加したい。東南アジアのお客さんと面談したい。出産前にはごく当たり前にできていたことが、いまの自分にはできない。そんなもどかしさが積もっていく。海外出張となると最低一週間は必要になる。子どもたちからそんなに離れるなんて、悲しすぎて到底考えられない。

周りの同僚たちは今日も世界を飛び回っているというのに、それどころか定時に帰宅する自分がいる。私は、会社に貢献できているのだろうか。復帰から一年弱が経とうとしているいまも、子どもたちを寝かしつけた部屋で、彼女はときどき独り言のように呟く。

「普通に働くっていうただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう……」

だが、悩んでいるのは自分だけではない。社内には女性総合職のママも増えていて、話す機会も多い。

子どもと会えない寂しさで、出張に向かう機内では涙をこぼすが、現地に着いた瞬間に切り替えて頑張っているママ。ベビーシッター三人を調整して働き続けているママ。そんな仲間たちの姿に触れると、ハッとさせられるものがある。

勇気を持って一歩踏み出さなければ、いまのモヤモヤは変わらない。それを、子どものせいにすることだけは絶対にあってはならない。下の子が三歳になり、自分の身の回りのことがある程度できるようになる今年、出張に挑戦してみよう。少しずつ変えて行けばいい。私には、支えてくれる母親だって、近くにいるのだから。

父親の海外赴任にともない、教職を諦めた母親は、帰国後の教職復帰も叶わなかった。ブランクや年齢が教員免許復活の妨げとなり、塾講師の職に就いた。商社で働く娘が壁にぶつかったり悩んだりしているとき、母親が何度も言ってくれた言葉を彼女は思う。

「私は大好きな仕事を諦めてしまったことを後悔しているの。だからね、好きでやってる仕事は絶対に辞めちゃだめよ。どんなサポートでもするから、しがみついていなさい」

大好きな仕事ができる会社に私はいる。母のこの言葉がある限り、私はきっと大丈夫だ。