まさかを
呼び込む

  • 金属カンパニー
  • 非鉄・金属原料部
  • 軽金属原料課(取材当時)
  • 2009年入社

植松 研Ken Uematsu

Conflict
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ブチブチッと、膝が鈍い音を立てた。

アメフトにケガはつきものだ。一年生の秋、試合で使ってもらえるようになった頃だった。そのチャンスを潰したくない。激突の瞬間には激痛が走ったが、一〇分もすると和らいできた気もする。

「うん、大丈夫やろ。たぶん」

コトの重大さに彼が気付いたのは、翌朝だった。酷い内出血で、脚がパンパンに腫れ上がっている。だが、その日は絶対に落とせないスペイン語の試験があった。自宅から京都市内のキャンパスまでは約二時間。足を引きずりながらなんとか辿り着き、試験を受けてから病院に行った。

「キミな、なんですぐ来ないの。靱帯断裂、二週間の入院やな」

車椅子に乗ると、いつもより低く沈んだ風景を見ることになる。彼の気持ちも重たく沈んでいた。

「こんなんでアメフト続けられるんか、オレ……」


リハビリを続けて試合に出られるようになったのは、一年後のことだった。その間、裏方としてチームを支えていると、選手とは違う角度から練習や試合を見ることになる。すると、戦略が頭に浮かんでくる。だが、試合で結果を残していない者の意見には、なかなか耳を貸してはもらえない。そのモヤモヤとした思いを、復帰後の二年間に思い切りぶつけた。

アメフトがオフの時期には、国際関係学ゼミの一員として、大学対抗のディベート大会にも参加した。『グローバリズムと食糧の不均衡』をテーマに論じたことを覚えている。大学受験で第一志望校に落ちた悔しさを挽回しようと勉強にも力を入れ、やり切った四年間だった。

就活では商社だけでなく、飲料・医薬品などのメーカーから、銀行、広告代理店、新聞社、海運に至るまで、さまざまな業界を受けた。面接ではアメフトの話題も出したが、国際関係学の話題にも熱が入る。すると、決まってこう返された。

「どうも、キミの言ってることは商社向きだと思うんだけどね」

実際、数社の商社から内定が出た。

伊藤忠商事を選んだのは、面接官や先輩たちの魅力に加え、一緒に面接を受けた同期たちの独特の雰囲気も大きな決め手になった。

他の商社の面接では、留学経験や部活でのキャプテン経験などをアピールする学生が目立った。もちろん伊藤忠商事の面接でも、そういう者はいる。ところが、そこだけのアピールに留まらない。どういうわけか皆、根拠のない自信にあふれているのだ。

「私はこう思うんです!」

こんな前のめりな勢いがありながらも、他の学生の話を邪魔しない視野の広さのようなものにも好感が持てた。

「こいつら、なんか、おもろいな」

みんなキラキラして見えた。一緒に揉まれて、刺激を与え合いながら働きたい。心から彼はそう思った。

配属先は、金属カンパニーのアルミ部隊だった。アルミというと一円玉と缶しか知らなかったが、自動車や建材や航空機、新幹線のボディにも使われている。そうしたメーカーの元へ、海外から輸入して届ける仕事を任された。デリバリー手配や検品など、一連の流れが滞らないよう、関係各所とのやりとりは欠かせない。コンテナ船が入る港は全国各地にあり、横浜や名古屋の港によく出向いていた。

徐々に、アルミの先物管理も担当するようになった。一トンあたり一〇セント単位で動かしていくが、量が多いと莫大な額になる。あるとき、自分が売り買いしたアルミを計算してみた。

「めちゃ大きいやん! 一パーセント違っただけでも、えらいことや」

この日だけで、取扱い額は二〇億円にのぼった。一年目のクリスマスの夜のことである。


同期たちとは、お互いに忙しさもあり頻繁には会えなかったが、たまに顔を合わせると、やはり海外出張のことが話題になる。

「俺、もう五回行ったよ」

「俺は、この前ようやくだよ」

彼はまだゼロだったが、焦ったりはしなかった。いますべきは目の前の仕事に打ち込むことだ。いつか必ず行くことになるのだろうから。

初の海外出張が命じられたのは、入社二年目の冬のことだった。営業補佐や予算管理といった業務を任され始めていた頃で、顧客訪問も増えてきていた。そんなとき、顧客の中国工場でトラブルが発生したが、課内で誰も動ける者がいない。

「植松、お前一人で行ってきて。羽田から先方の常務さんと一緒だから、失礼のないようにな」

「えっ! 僕、中国語できませんけど」

「大丈夫、上海のスタッフが合流してくれるから。じゃ、よろしく」

北京経済特区にある工場で、社外の人間は誰も足を踏み入れたことはないらしい。クレーム処理でやむをえなかったとは言え、守秘性の高い製造現場の立ち入りを許可されたこと、結果的にクレームを解決できたことは、あとあと顧客から一目置いてもらえるきっかけになったが、初海外出張の洗礼はしっかり浴びた。帰りのタクシーで、「二人乗ったのだから料金はメーターの二倍だ」と運転手からふっかけられた。交渉しようにも、相手が中国語でまくし立ててくるものだから、どうにも太刀打ちできない。

次の海外出張先のドバイでも、あたふたしていた。現地のサプライヤーが世界中から顧客を招いて大イベントを催す。そのアテンドを任されるも、顧客を連れて道に迷ってしまった。初めての地での業務は、連日失敗続きで課長からも叱られてしまう。自分が情けなくなり、不覚にも涙を流してしまったこともある。だが、気合いを入れ直して臨んだ翌年からは、顧客たちのフォローもうまくできるようになった。

入社から五年目、彼はグループ会社の伊藤忠丸紅鉄鋼に出向となった。金属カンパニーからはそれまで、鉄鉱石や石炭を担当する者が出ていたが、アルミ部隊からは初めてである。向こうに行ってなにをどうすればいいのか、レクチャーしてくれる先輩は一人もいない。課長は彼をこう送り出した。

「いいか植松、質問のプロになるつもりで行ってこい」

質問というのは、じつはとても難しいものだ。ただ訊けばいいわけではない。要点や長さ、タイミング、聞き方を誤ると、返ってくる回答もそれなりのものになってしまう。的を射た質問を投げ続けて、学んだことを吸収して帰ってくる。それが自分の役割なのだと彼は思った。

自動車部門に配属され、トラックメーカーの担当になった。言うまでもなく、鉄や自動車は国家成長を担ってきた基幹産業である。その自負が、現場の一人ひとりから強く感じられた。門外漢は簡単には受け入れられない雰囲気が漂っている。

メーカーの担当者からは腰掛け扱いされることも多く、話し込むのは時間のムダという空気すら流れていた。

「植松くん、そんなに頑張らなくてもいいよ。どうせ二年で戻るんでしょ」

「いえ、そんなことないです。どうか教えてください」

アルミ部門から最初の出向者として、自分が少しでも結果を残さないと、次の後輩の道も断たれてしまう。その危機感も、「なんとかしなければ」と踏ん張る力になった。

やがて、大手自動車部品メーカーと伊藤忠丸紅鉄鋼が、インドネシアで立ち上げたばかりの合弁事業を担当することになった。材料価格から商流、物流に至るまで決まっていないことだらけの中、手探りでメーカー側にアイデアの提案を試みる。しかし、担当者はろくに時間を割いてくれない。完全に素人と舐められていた。電車やバスを乗り継いで二時間近くかかる道のりを、週に二度通い続けた。

「とにかく、顔を合わさなければ」

実のある交渉ができるまでに二、三か月かかった。当時四〇代半ばの、その担当部長との出会いがなければ、いまの自分はなかったと彼は思う。

ある日、コストの条件面を交渉しているとき、担当部長からこう言われた。

「いやいや植松くん、そんなに簡単に、無理です、できませんって言っちゃだめなんだよ」

「はあ……、でもこれ以上は……」

「あのさ、無理を言ってるのはこちらも承知してるわけ。で、他の商社だと、理路整然と賢そうな説明を並べて話が終わっちゃう。でも、キミたちにそんなこと求めてないから」

「と言いますと……」

「だって、植松くんもそうだけど、伊藤忠の人たちって、やたら熱くて、おしゃべり好きで、人間くさくって、すぐ諦めるのではなくて、どうやったらできるか真摯に考えてくれるっていうのが、他の商社との違いじゃないか」

彼はハッとさせられた。物事の捉え方は、自分や自社の視点に偏ってはいけない。顧客が伊藤忠という会社に、もっと言えば植松に対して期待すること、求めていることに、あらためて気付かされた。

それまでの仕事を振り返ってみると、要求が無理だと思っても「ちょっと考えさせてください」と話を預かって、顧客の気持ちを聞きながら物事を進めてきた。それが、この担当部長の前では気負いすぎてしまい、できていなかったのだ。

もっと自信を持って、自分を貫いていこう。

たとえば、顧客が値下げを求めている。システマチックにテキパキ進めるなら、無理ですと押し通せばいいだろう。だが、そんなやり方は「伊藤忠らしく」ない。本当にお金の問題なのか、顔を立ててほしいという気持ちの問題なのか、そこをきちんと見極めた上での、交渉のプロセスが数字よりも大事なのだ。

なぜなら、人間には感情がある。海外・日本を問わず、交渉の余地がゼロということはない。だからこそ、いくつもの質問を投げかけることもできる。

それに気付かせてくれた担当部長とは、インドネシアへの出張を重ねる中で、次第に打ち解け合っていった。

「植松くん、家に遊びに来い」

「えっ、いいんですか、めちゃ嬉しいです!」

自宅に招かれ、手巻き寿司パーティーを楽しんだことに、出向先の同僚たちは一様に驚いた。

「まさか、あそこの担当者にそんなに仲良くしてもらえるなんて。そんな話、いままで聞いたことないよ」

出向中にできたのは、種蒔きに過ぎないと思う。それでも、顧客との関係を深められたのには大きな意味がある。

「ああいうやつおったな」

「あの会社と付き合ってるとこういうこともあるんだな」

まずは顧客からそう感じてもらうことが、伊藤忠グループの評判や懐の深さにつながっていくに違いない。

合弁会社の立ち上げを一丸となって支援し、最後の海外出張に同行し迎えた最終日の夜、お酒のせいだったのか目を赤くした担当部長がポツリと言ってくれた。

「年は離れてるけど、お前のこと、親友だと思ってるからな」

出向から本社へ彼が戻ったのは、アルミ全体の市況が良いとはいえない時期だった。だが、外部要因に嘆いていても始まらない。仕事が減っているときだからこそ、新しいビジネスへの種蒔きもしやすい。彼は、出向の経験を生かして、自動車分野でなにかできないかと考えた。

「そういえば、うちって、D社と取引ないんやな……」

目を付けたD社は、自動車部品の最大手メーカーだった。参入するのは容易ではないが、取引を生み出せば、最新の業界動向が掴める。他のビジネスへと拡げられる可能性も大きい。

「僕、D社さんをやってみます!」

「植松、あそこに食い込むのは無理だよ。トライするのはいいけど、あんまり深追いするな」

周囲からは、まったく期待されていなかった。いざ調べてみても、社内にも人脈がまったくない。ならば、と直接アポイントをとって面会を申し入れた。伊藤忠の看板も手伝ってか、会うことはすぐにできた。

営業したかったのは、定期的にアルミを納める仕事だ。D社の場合、自動車部品をつくるためのアルミは、毎月一回の入札が行われる。そこに、まずは模擬として参加させてもらうことになった。

彼の立ち位置は、あくまでも「オープン参加」のため、たとえ一位の価格を提示したとしても、商売としては売上ゼロである。だが、価格競争力を持っていることはアピールできる。付加価値の高い情報やプレゼンの機会も得られる。やがて受け入れてくれると信じて、彼は地道な活動を重ねていった。

そして、二〇一七年の七月、蒔いてきた種は実を結んだ。

「部長、D社さん、契約できました」

「え!? できたのか! まさか、あの会社をモノにするなんて。おめでとう! お前、いつからやってたっけ?」

「はい、十四か月前です!」

商売は粘ってナンボ。これは、出向先で、あの担当部長との付き合いから学んだことだった。

D社との取引も着実に課の業績に貢献し、アルミ販売量は過去最大を記録した。特に、アルミビレットの伊藤忠商事のシェアは、日本の全需要の約二割、輸入品としては約六割に達した。

その成果にも、彼はけっして気を緩めない。経済には浮き沈みがある。好調ないまこそ、儲かったお金を五年十年先に生かせるような投資や、顧客への新しい提案をしていかなければならない。将来を見据えた一手を打っておくか否かで、数年後に大きな差がつく。そう彼は考えるのだ。


思えば、アメフトで膝の靱帯を切ったときにも、同じことを感じていた。

強いチームであり続けるためには、現状維持ではいけない。新しい戦略も高校生のスカウト活動もトレーニング設備の整備も必要だった。あの裏方時代、ユニフォームを着られない中で考え続け、復帰後へと生かした経験は、いまの仕事への向き合い方につながっている面が少なくない。

同期や後輩にアメフト時代のケガの話をするとき、ただし……と彼は付け加える。

「試合中なら、カッコええやん。でもな、試合前の練習中やってん。ドラマチックな話にならんわ」

これまでの仕事を振り返っても、カッコイイことなど一割もない。入社から九年目、年次が上がり仕事が大きくなるほど、カッコわるいことのインパクトも大きくなってしまう。それでも、失敗を恥じてしまうのではなく、後輩たちに対しても堂々としていたい。

「やっちまったー、みんな、すまん!」

「でも、これでこうやって取り返すわ。頑張ろ!」

そうやって、いつもポジティブに挑戦している者こそ、カッコイイと彼は思うのだ。


※アルミ合金を棒状に固めたもの。用途はアルミサッシや、自動車部品、鉄道車両のボディ等。